昭和41年05月30日 朝の御理解
(途中末尾切れ)
神様が私共に示して下さる全ての事柄、実意丁寧を持ってそのお示しに逆らわずにお示しのままに生活さして頂くという生活、そういう生活を宗教する生活だとこう申します。 それを私共は教祖の神様ご自身が天地の親神様のお指図のままにご生活をなされた。しかもそれを実意丁寧に受けぬいておいでれた。そこから様々な信仰体験が生まれてきた。それを私共に御理解として下さっておる、直接神様からお指図を受けられた。あぁぞこうぞとお示し下さって、その事を残しとって下さるのが御教えである。
ですから、その御教えにもとずき御理解にもとずき、私共がいろんな御教えを自分のものにして、それを実意丁寧にそれを行事ていくと言う、そういう生活といわれる信心生活、宗教さして頂くもんの生き方。信心はしておるけれども、拝みはおるけれども、神様のお示しのままに動かない。自分勝手に動く。自分の心次第で動いておるという。それでは言わば道に反しておる訳ですから、おかげにならん。又いやしくも金光教という宗教を頂いとる訳ですから宗教人らしいね。
そこんところを私は大事にしていかなければ、宗教の値打ちはないと思う。宗教の宗という字は、うかんむりに示すと書いてあるね。神様が示される教えと書いてある。宗教とは宇宙の宙というのは、天地の親神様という意味でしょうね。示す神様の示して下さるね、それに素直に忠実に生活さして頂く生き方、そこに人間真実の幸福がある。そこに神も助かり氏子も立ち行く世界が顕現されて来る。
そしてその有難い理想郷じゃないですか、皆んな、そういう素晴らしい一つの理想郷目指しての信心の稽古でなからなければいけません。只信心とは自分の得手勝手な事を願うてから、どうぞ、どうぞとこう拍手して拝みあげる事だけが信心の様に思うとる人がおるね。どうでも皆さん神様がお示し下さるね、お示しのままに私共が生活さして貰うならそういうお示しのままに生活をするとう言う事は、窮屈な事か難儀な事か苦しい事かそうでない楽しい面白い愉快ね、生き甲斐がある、そういう生活なんです。
信心生活とは。それを信心はみやすいものじゃが氏子が難しゅうするね。御教えを頂いた( ? )本当に自分のものにしていかないけません。自分は得手勝手な事を思うてから、神様をまるきりその小使いさんのごともう自分の為に、神様がはあぁ神様をその使おうと思うとる。そういう生活をそういう事を信心だと思いよる人達がおるね。今日は何処、何処方面にに商売にやらせて頂きますからどうぞあなたも私について来て下さい。まさかん時にはその小間使いにやら、番頭にやら女中やらに使おうと思いよる。
そういう、得てして、そう云う様なその風にしか神様を頂き切ってない人達が多いんですね。どこまでも神様のお指図のままに、お示しのままに、何処におっても、そう動かして頂きます為に、神様が何時も私の先頭きって下さる。神我と共にあり。神様は何時も私と共に働いて下さる。神様がどこにおってもねどこの方面に、例えば商売、商売に出ましてもね神様が、これからここから帰らんか、こちらの方へ曲がれ、さあ右じゃ左じゃと例えばお指図下さる、お示し下さるね。
それを従う為に神様を、これともに頂いていくのであるけれども、神様を使う為に神様をつれて行きよるっていうたものでは駄目だ。本当の宗教知る為に宗教人らしい生活をさして頂く為に神様のお示しのままに動かして頂くね。そこんところを本当いうたら神様は私共にね、それこそいちいち、話かけて下さって絶えず世界中の氏子に、話がしてみたいと仰る程の神様ですから、けれども氏子にダンプの音である。氏子聞く耳持たんから、せんに及ばんとこう仰っておられます。そこで私共はその御教え御理解ね。
それをどうも神様のお示しのお声と思わして貰い、はあこういう時にはこうあるのが本当、こういう時に教祖の神様は、どう言う風なお道を取られたか。はあこげん時親先生はどけんな風にしなさるじゃろうかと言う風に、そこに神の声を聞く気持ちがなからなければいけない。そういう気持ちになると心の中に神様は或いは、大きな声で、或いはささやく様に右が本当ぞ、左が本当ぞと教えて下さるのだけれども、そこの所が私共の我情があり我欲があると、それを聞き取る事がでけんね。
そこで我情我欲を離れてとこう仰る、私共が本気で我情我欲を取らせて頂く稽古を、さして貰うとです本当におかげは、神徳の中に生かされてあるんだなあと。どうぞ神様の御守護の中にあるんだなあと、どうぞ神様のもう、いちいち何処におってもそれをもう、綺麗な所におろうが汚い所におろうが、寝とろうか起きとろうが絶えず、神様が働きかけておって下さるんだなうと、成程心隔てなく祈りさいすれば、便所の中だって、同じだなあと言う様なです実感の中にです、日々生活さして頂く生活ね。
神様のお示しのままに動かして貰う生活。昨日例えば、一日の私の神様のお示しのままに一日を終わらして頂き、今日も神様のお指図のままに、もう、結構なおかげを頂きまして、御用にお使い回しを頂きまして有難とう御座いますと、こういう私、一日をまあ、( ? )見ておって下さるからわかるけれども、聞いて下さればね、朝の五時の御祈念、もう、それこそお指図のままにもう、これは一秒間だって狂わん様にこれは決まっておる事。改めておい五時から御祈念しょうと仰らんでも。
これは決まっておる事ね。御神前に出らして貰う。一時間なんぼかの御祈念をさして貰うて。皆さんに御理解を聞いて頂く。いや又、私も頂くね。そして次々とお参りのある人達を昨日私は、丁度三百名近くをお取次した。流石もう、忙しい忙しいかというと、昼寝もさして頂いとりゃもう、様々な意味で楽しまして頂いて、あるその会に、昨日私は本当にこれ迄もあった事があるんです。
丁度十時位だったでしょうかね。昨日は御承知の様に日曜日でもありましたし、それから敬親会学生会、青年会ソフトボ-ルのあの試合なんかがあった。それから総代さん方の現場の現場説明があったり、かじ委員長の推薦があったりもう大変まあ、忙しい一日で御座いましたね。もうそういう中ですからもう本当に、只のきりきり舞でそれこそ一服する間も無かったから、三百名近いお取次をさして頂いておるんだからいうですけれども、そうじゃないもう本当に、ちゃんと一服させて貰う所には一服さして貰う。
楽しい思いをさして貰う時には、楽しい思いをさしてもらいね、お茶も頂きゃ御馳走も頂き、そういう大体生活なんです。生活というのは神様がお示し下さるのにとんでもない、こげんごともうこれ、はしょれば全く無視せんかいと仰る神様じゃないです。もう整然としてお使い回し下さいます。こちらがその気になっとりゃ先生ちょっと待って下さい、これをしてからと云う事はない。
もうそれが仕えとるならゆっくりさして下さるね。福岡の大森さんが十時頃近うお参りになって、紙に包んだのを持ってから何ですか、ちゅうたら先生これはあの先生に見て頂いた、ああ、あれですかとこの頃福岡に行った時、あちらでお茶によばれたそん時に、あちらで見事なこんな信焼きの茶碗を見せて頂いとった。今度あの御造営がでけますのにあちら、まあ美術品の陳列棚がでける。
それにあたしゃ何とか思いましたら、先生これがお気に召しますごたるなら、今度参ります時に持ってまいりますからというちゃった。楯がなかったから楯も一緒に用意して昨日持って見えた。ここでそれを見せて頂いて、見れば見るほど楽しい焼物である。神様に御礼申し上げて頂きよったらね、神様、おやつと頂いた神様おやつまで下さるとね 神様からご覧になりゃやっぱり私共子供におやつをやる様にね、私が喜ぶもんじゃから、私が楽しむもんじゃからね、本当に勿体ない話。
けれどもそういう神様なんです。神様って今日は飲ませんぞ、甘いもの食べさせんぞといったような考えじゃないという事。昨日丁度十一時頃でしょうか。繁雄さんが今日は髭が延びとりましたから、髭を当りに来て下さったとこう言うてこうあってから、髭をそらして、勿論長うならせて頂いてから、髭を当って貰っとる時、髭をそって貰ってる時、眠ってしまってる。昼寝までさして下さっとるでしょうが。
朝からいうならね、というていうならもう十二時、一時近く位まで休ませて頂いとるなら繁雄さんがこうやって起こしよんなさいます。もう私は帰らして頂きます。お昼ですから、いいや私しゃもういっとき眠ると言った様な事はありゃ、神様の思し召しではないですね。もう繁雄さんを使うてから、神様が私に起こしよんなさる。有難く起きらして頂いてから皆んなと一緒にお食事をさして頂いてから、もうそれから何時間が繁雄さんのお茶でも頂かして貰うてから、本当に楽しませて頂きました。
次々とお参りがある。私楽室を出た( ? )もう夕べの十一過ぎまでもう本当にもう御用にもいっぱい使うて頂いて、同時に神様が楽しむ時には楽しませて下さる。眠らなならん時は眠らして下さる。おやつ頂かんならん時は、おやつを下さるね。神様のお示しの通りに動くという事。私昨日敬親会で御座いましたから、丁度今繁雄さんが見えておりますから、今日いっちょあの年寄りの人達が言いよんなさる。いっぺん繁雄さんの話ば頂きたいち、言いよんなさったから今日はよか幸いじゃから、今日は講師じゃん。
ひとつ二階でありよるけんでお話して下さい。あたしゃと言いよんなさったけど、まあ行って最後まで御用頂いて下さった。皆さんが本当に繁雄さんの話を聞いて頂いてからもう先生の話より有難かったごたるち。本当に有難いあたしゃ下でそのおりましたけどほっと眠りが付くそういう時が大事な様ですね。眠りが付くから、成程うっついて眠っても、けどもそこにもう次の用事がもう、うっつく前にお取次を願うておられる。
私しゃ眠かけん御無礼するという祈りはもう、神様の示されると云う事に素直でない。してそういう時には辛抱なんです。神様が示しておられるのであるから、又しゃんとこう、動かして頂くと、又目が覚めるね。寝ほうだい、食べほうだい、しほうだい、そういうもではないね。例え眠かってもそこに人が私を訪ねて見えておるならば、その人に忠実にその人とお話をする事。それが神様お示しのままに動く事なんですね。
例えていうならば、昨日一日の事いうたら、もっと細かな事いうたら、様々な事が御座いましたけれど、様々な事の中でです、まぁ( ? )申しますと一生懸命に御用に、お使い回しを下さっておる。三百名近いからのお取次をさして頂いとる。その合間、合間にね、昼寝もさして頂いておれは、いうならおやつまで下さっておる。 お茶も楽しませて下さっておるね。丁度そん時、その時分でした。あの誰かあのお花をここに下さるのか持って来ておられたのか、お花を手洗鉢につけて御座います。
もうあすこにゃ、つけちゃならんち。誰があすこにつくるじゃろうかち。あすこに口ゆすがなならん所へ、さっち、あげん所つけてから、又あれば綺麗にそうですよね。手ゆすいだり、口ゆすいだりする所に。お花をつけとる水から上げてから綺麗に掃除して、ほから勿体ないから誰か忘れちゃるとか知れんばってん、これ又枯らかしちゃ又相すまんからと思うて、私しゃあっちこんちお花を入れて回る。そういう言わばもうその、いうなら楽しみも合間、合間にちゃんとさして下さっておる。
信心生活神様がお示し下さる生活というのはね、其処の所に私共は怠け心をだしたり、ずるい考えを出したり、そのお示しに対する不忠実であると云う事は、是は許されません。神様のお示しのままに、素直にこちらが動かして貰う生活。そういう例えば生活をする様な所に、今日一日御用にお使い回しを頂いて有難い。人の目をかすると言う事は、神様の目をかすると同じ。人を騙すと言う事は、もう神様を騙す事と同じ事ね。そこで陰日向の心を持つなと仰るね。
だから私共は、そういう生活をですね楽しませて貰う。生活をエンジョイすると言う様な、意味の言葉を使われますけれどもね、私はもうこの宗教する者がです、神様の言わばお示しのままに、生活さして貰う位に素晴らしい生活の、エンジョイすると云う事は無かろうと、より生活を楽しませて頂くと言う事ね。もう実にそれこそ、高い所から低い所へ水が流れる様に、スム-ズにその合間に私共は時折、不埒(ふらち)な事を思うたり、不忠実であったりね。
いうならば眠ってならん時に眠ったり、してならん時にしたり、神様がちゃんとしてよい時にはして良い様な、雰囲気を下さる。言うて良い様な時には言うて良い様な雰囲気を下さる。食べてよい時には食べてよい雰囲気を下さる。眠って良い時にはもうちゃんと神様は眠ってよい雰囲気を下さる。お示しを下さる。そこらへんを私は神ながらに体得されたら有難い事だと、こう思う。
そこに身に徳を受けさして頂く様に段々ならせて貰うとですね、世界中の氏子に話がして見たいと仰る神様のお言葉も、直接頂く事が出来ると言う様なお徳には進む事がでけるね。只、お互いが神様のお示しを大事にするのは、自分の都合の良か時だけ、自分で分らんとお伺いをする。そして神様のお伺いをその聞かせて頂く事を神様任せになっておる様な気持ちでおる。そんなもんじゃない。その合間が大事。日々の生活が大事 もう生活全体がいうなら、あなた任せの生活でなからなけれはならん。
その生活を私は宗教、神様が示しておって下さるね、御理解に於いて、又は御教えに於いて神戒、神訓、御理解、あるいはそのまま神様のお示しのままへ、又は自然、成り行き、その成り行きというものは、神様のそのままが目であり、耳であり、又は口である。目を持って口を持って私共の上にお示し下さる。その昨日、一日の中に、そういうものの中に私が感じておりますが、そういうものを皆さんが分ってくれたのでしょうね。さあ
(途中末尾切れ)